涼やかな風と共に舞い降りたのは、夜の闇を吸い込んだかのような地獄蝶。
ふわり、ふわりと。黒蝶が届けたのは恋人の副官からの苦情めいた言伝だった。
「あんたの愛しの隊長が手に負えないの。早く助けに来て頂戴。」
―――乱菊さん。酔ってるのかな。
どちらにしても様子を見に行ったほうが良いのだろう。
は手元の書類を纏め上げると、窓辺で休んでいた黒蝶を同じ色の空へと放った。
宵に紛れた密か事
ここに来るのは今日で二度目。
乱菊が告げた場所は、上司たちに誘われるまま何も知らずに日番谷に引き合わされた店だった。
あの日、はひたすらお酒を飲み続け、挙句の果てに意識を無くしてしまったものだから
正直なところここでの記憶は曖昧なのだ。
日番谷にも世話になったらしいのだが、やはりそれもぼんやりとしか覚えていない。
まだ記憶に新しい暖簾を潜り抜け、係の者に中に通され一つのお座敷の前に辿り着く。
襖が開かれた途端、の目に飛び込んできたのは、転がったり辛うじて起き上がっている
無数の酒瓶たち。そして、その中に埋もれるように伏している日番谷の姿。
「もう、来るの遅いわよ。隊長に絡まれて大変だったんだから。」
アルコールの香が立ち籠める室内。その中で、乱菊はまだ平然と酒を煽っていた。
あの時の二日酔いが原因で以来すっかりお酒が苦手になってしまったには、ここの香は少々きつい。
「乱菊さん。これは・・どうしたのですか?」
「まあ、隊長だって潰れるぐらい呑みたくなる日もあるわ。
放っておくと一人で溜め込むでしょ。たまには付き合ってあげないと。」
「すみません。私が呑めないから。」
そう告げると、申し訳ないというようには視線を落とした。
「いいのよ。でも、私の役目はここまでね。
ここから先はあんたの役目。こういう時ぐらい傍にいてあげなさい。」
の肩に強く優しく触れる手。
「じゃあ、後は頼んだわよ。私はこれから二軒目が待ってるの。
・・ああ、大丈夫よ。隊長はどんなに呑み潰れても自分の足で帰るから。」
乱菊はひらひらと大きく手を振ってみせると、しっかりとした足取りで襖障子を開いた。
ごゆっくり。部屋を出る直前に言葉を添えて。
残されたのは静寂。散らかった酒瓶、アルコールの香。そして、愛しい人。
*
歩を進める度に足元でぎしと鳴く畳に気をとられながら、伏したままの背に辿り着く。
二人きりになるのは初めてじゃない。白い羽織を纏う背だって見慣れている。
それなのに先程からの心が落ち着かないのは、目の前のその人らしからぬ姿に
いつもとは違う何かを感じるからだろうか。
―――こういう時、何と呼び掛ければ良いのだろう。
二人、取り残された室内は静けさが際立つ。
「隊長。・・日番谷隊長。」
口にした名の乾いた響きが静寂に広がる。
こういう時ぐらい、さり気無く距離を詰めるような呼び方をしても良いのかもしれない。
けれど、結局のところ心の中に過ぎった呼び名を口にする事はできそうにもなくて、
迷った末に無言のまま日番谷の肩に手を伸ばしてみる。
触れる直前。躊躇って、確かめるようにそっと触れてから、その肩を何度か揺さぶってみる。
白い背が銀の髪と共にゆらりと揺れた。
―――こんなにも人に心を許す姿は初めて。
もう一度手を伸ばしたところで、ふいに背の主がの華奢な手首を掴んで苦情を告げた。
「あまり。揺らすな。」
気だるそうに顔を上げ、向けられた瞳は少し虚ろ。けれども変わらぬ澄んだ碧緑。
その碧緑がの姿を映すと、手首を柔らかく解いてから、起き上がろうとして顔を歪めた。
「具合悪いですか?」
「いや。・・松本か?」
松本がここに呼んだのか。という問いに、は小さく頷いて返してから、
漆の盆に用意されていた
水差しを注いで冷水を差し出す。
日番谷に掴まれた手首の感触がまだ鮮明に残っていて、そこがまだ熱っぽい。
「持てますか?」
手元にはグラスと透明な液体。
「あの時と逆だな。」
こめかみを押さえていた日番谷の口元に僅かに笑みが浮かぶ。
「頻りに酒を呑んでたな。見かけによらず松本に勝る上戸かと思った。」
「おかげで一生分の許容量を超えましたから。」
言動から察して、然程酔ってはいないのだろう。
これなら大丈夫、とは促すように右手を差し出した。
「歩けますか?」
まじまじと日番谷がその手を見つめる。
―――この手は余計だっただろうか。
呑み潰れても自分の足で帰る、と告げた乱菊の言葉が思い返されて
途端にその手を引き込めようとしたところを日番谷に捕らえられた。
「構わねえ。」
掴まれた手を引かれ、背を抱き寄せられると納められた先の死覇装から酒の香が強く香った。
こういう恋人らしい扱いは、まだ慣れない。
コクリ、と喉が鳴る音さえ聞こえてしまったのではないかと、触れ合う距離は落ち着かない。
「香り。お酒の香は苦手です。」
ささやかな訴えなど聞こえないかのように、日番谷が頬に流れる黒髪をすくう。
弄ぶようにして手触りの良い髪をさらりと落とすと、次いで柔らかな頬を撫で、ふっくらと色付く
唇になぞる様に指を触れさせていく。
「お前も酒の味だった・・」呟きは滑り落ちるように。
の瞳が大きく瞬く。どういう意味ですか?と紡ぐより先に唇を引き寄せられたことで、
その全てが伏せられた。
―――やはり。酔っているのだと思う。
合わせられた唇も力の加減ができないのか、強引にを食んでいく。
相当飲んだのだろう。日番谷からは酒の味が伝わってきて、頬が火照る。
息をついたのも束の間、繰り返し黒髪に手が伸ばされたところで、は掴まれていた硬い手を強く握り返し
その動きを止めた。目の前の肩口に逃れて、そろりと視線を外す。
「・・嫌か。」
「駄目ですから。アルコール。」
周りに仕組まれるままに引き合わされて、促されるままに付き合い始めた。
雛森も乱菊も、日番谷の恋人として今日のように気を回してくれるけれど、二人よりも日番谷のことを知らない。
だから、遠慮してしまう。すぐに躊躇ってしまう。こんなにも酔うまで呑んだ理由すら聞けずにいる。
「あの。さっきの・・酒の味だったって」
「酔ってる奴の戯言だ。気にするな。」
沈黙の中に気まずさが漂う。
強い口調ではない。けれど、突き放されたような気がして、日番谷の肩口にぐっと顔を埋めた。
「。」
「はい。」
「・・・。」
「・・・はい。」
初めて紡がれた呼び名。その声が思いの外優しさを帯びていて、ゆっくりと顔を上げると
日番谷の手が探るように唇に触れてきた。
「よく知りもしない男の腕で眠りこけるんじゃねえ。」
「・・つまり。そういう意味ですか?」
あの日以来、酒を口にしてはいない。つまり。そういう事なのだろうか。
「解釈は勝手だ。」
「まだ。好きじゃなかったのに。」
横暴です。と呟くと、肩口から引き離されて日番谷と視線が絡み合った。
「なんなら仕返し。してもいいぜ。」
そう言って、微かに笑んだ後に翡翠の双眸が閉じられた。
いつもの強い眼差しはそこにないのに、まだ意思の強いものを感じるのは輝く銀の髪のせいだろうか。
「お酒。駄目ですってば。」
「酒ぐらい我慢しろ。」
焦れたように急かす様に、熱のある日番谷の手に力が込められる。
不意を突いてツンとした銀色の髪をわしゃわしゃと乱してみるのもいいかもしれない。
一房だけ流れ落ちる前髪に触れてみるのもいいかもしれない。
それとも、大人しく口付けようか。
どちらにしろ、次に翡翠の瞳に映る時、二人の距離は前とは違うものになっている気がして
胸に満ちる幸せなものに酔ってしまうのではないか、とは一人密やかに笑みを零した。