――ああ、そうか。月が綺麗な夜だったんだ。
涙で滲む視界にも、窓から差し込む月光が眩しいぐらい。の目の前に広がるのは、誰もいない部屋。
帰宅するなり、ドサリと寝台に投げ出した身体はそのまま一人で静かな夜を過ごしている。
本当なら。恋人との、ひと月ぶりの再会は甘いものになるはずだった。冬獅郎は、喜んでくれるかなとか。
久々だし。やっぱり抱きしめてくれたりとか、口付けとか、そういうことになるのかなって・・・。
期待してしまったから。今夜の寂しさは、思いの外堪えている。
任務の疲れは身体を眠りに誘うのに、淡い期待が意識をここから離さずにいる。
もしかしたら、来てくれるかな・・。
二人きりで過ごす時は冬獅郎の邸宅と決まっているし、隊長の身分で他隊の宿舎に足を運ぶのは彼の体裁にも関わる。
だから、自室に戻った時点で今夜はもう会うつもりはない、と告げているようなものだけど。
長い夜。何度目の寝返りを打った時だろう。
カタ、と静けさを破る音。開かれた窓からは、ひやりとした空気が入り込む。
人とも死神とも違う気配が室内に降り立ち、清らかな霊圧が辺りに満ちていく。
――この気配は、良く知っている。
足音も立てずに近づく気配。眠るの傍でその歩みが止まった。
「勝手に入ってきちゃダメ。・・前にも言ったでしょ?」
「主に、そなたを一人にせぬようにと言い付かった。今宵は緊急事態だ。」
氷雪系最強と謳われ、尸魂界において誰もがその力を恐れ敬うほどの斬魄刀だというのに。
恋人の機嫌を損ねた主の代わりに、忠実に様子を伺いに来るだなんて。
物々しい言い方と、その理由が可笑しくて、の頬が緩んでいく。
「一人になりたい時もあるって、あなたの主に教えてあげて。」
「一人になって、また泣いていたのであろう。」
冬獅郎よりも鋭いのは、生きてきた年月と経験の差なのだろうか。
――どうして分かってしまうのだろう。
「あの女のように、そなたも主に泣きついてみてはどうだ。」
あの女。その言葉に、 の脳裏を過ぎっていくのは、目に焼きつくように残った光景。
日番谷の白い羽織に、知らない娘の紅色の衣が抱きつく姿。
彼の羽織に、おずおずと顔を埋めてみせた娘の姿。
「あの女を送っていけ、など。そなたも器用ではないな。」
透き通るような白い肌に、流れるような見事な黒髪。どれもが気品に満ちていて――。
綺麗な女の人だった。今夜の日番谷との約束が反故になった理由も、全てはその人なのだ。
目の前で繰り広げられた光景。日番谷に素直に想いを告げたり、泣いてみせたり、抱きついたり。
それを羨ましいと思ってるなんて、一体どちらが恋人なのか分からない。
「だって。泣いていたし、放っておけないもの。」
「今頃、主はあの女に言い寄られているかも知れぬな。そなたの前で、堂々と告白して見せた度胸のある女だ。」
分かりやすい程の沈黙。表情もきっと曇っているし、痛い所をつかれた事実は明らかだ。
日番谷に想いを寄せる女性が沢山いるのは知っている。
けれど、それを目の当たりにする度に、護廷の隊長であるという彼の地位が、生まれ持った才が、際立った容姿が、
天から与えられた特別なものなのだと思い知らせれる。
昔から追いつくことのできなかった距離は、今だってどんどん遠ざかっているのかもしれない。
「妬いているのか?」
「・・・それなりに。」
言葉の代わりに、ゆっくりとの髪を撫でる大きな手。氷輪丸の手は嫌いじゃない。好きだと思う。
氷に覆われた手は、大切なものに触れるようにいつも優しいから。
ギシ、と寝台が僅かに軋む。その重みで、彼がの傍に腰掛けたのだと分かる。
体格のわりに深く沈まないのは、やはり彼が斬魂刀だからなのか。
「そなたが任務で留守の間、主はあの女に現を抜かしていたわけではないぞ。」
「分かってる。」
「勝手に言い寄ってきた。」
「分かってる。」
「そなたの方が、美しい。」
変わらぬ口調で落とされた言葉にが思わず目を開くと、そこには碧緑の瞳。
真っ直ぐに見つめる深い緑に、慌てて視線を逸らしてしまった。
――同じ色をしてるのだもの。
顔も髪も日番谷とは違うのに、瞳の色にはドキリとさせられる。
近寄り難い気高さを纏うのも似ているし、揺るがない芯を秘めるのも、彼そのもののような気がする。
今夜は月明かりに照らされて、整った顔立ちも壮麗な体躯も一層に色めいた風情を見せている。
――どうしよう。
急に、寝床に身体を横たえている自身の無防備さが居心地の悪いものになってきた。
そろり、と逃げるように顔を伏せて冷えたシーツに唇を埋める。
「我の声が届かなかったか?」
低く囁く声は心に浸透していくよう。耳元に寄せられた唇に、身体がざわめく。
「・・・ちがう。だって、綺麗な人、だったし。そんな慰め要らないもの。」
「我は、がよい。」
優しさをくれるはずの手がに触れて、背後から包み込むように抱き寄せる。身体を覆われる感覚。
彼もまた男なのだと、今更ながら意識してしまう。全身に巡った緊張は、彼に気づかれてしまったはず。
「もう一つ。主に言い付かったことがある。」
直後。不本意だ、とでも言うかのような溜息が漏れる。
――に手を出すな、と。
「背いてはおらぬつもりだが。」
ほう、と今度はが息を落とす。それは、決して安堵したからではなくて。
目に浮かぶのは、眉を顰める日番谷の姿。
躊躇いもなく胸元に触れている、この腕はどうしたらいいのだろう。耳に触れる唇はどうしたらいいのだろう・・。
「これは・・・多分。」
言ってから、氷輪丸の手を外してみせる。
「でもね。これなら多分。」
振り向いて碧緑の瞳を見上げてから、目の前の胸にそっと顔を埋めてみる。
あの娘が冬獅郎にしたのと同じように。
――多分ね、これなら文句は言えないはずだから。
よく似た霊圧、よく似た体温、よく似た深い緑の瞳。
埋めた先は、広くて逞しくて。愛する人の気配がした。
*
ゆっくりゆっくりと心を溶かすように。何度も重ねてくれる唇は、愛しさを持て余すかのよう。
――この口付けは、知っている。だけど、今は。
まだ、ぼんやりとする意識の中で、の視界に映り込んだのは、暗闇と、碧緑。
――ああ。同じじゃない。この瞳は、冬獅郎。
「あいつだと思ったか?」
不機嫌であることは間違いない声。
を見下ろす瞳に宿る感情も、分かりやすいぐらいだ。
「妬いてんじゃねえよ。」
再び落とされた口付けは、強引にの唇を開かせて、思いのままに絡めとっていく。
あの娘の姿が過ぎるけれど、意地を張る気にもなれなくて。結局は、痛み分けというところだろうか。
感情のままに銀髪に手を伸ばして抱き寄せると、強引だった唇は優しくなって、ゆっくりとから離れた。
「・・来てくれたんだ。」
「あたりまえだ。」
死覇装に白い羽織のままの姿。恐らく、すぐに駆けつけてくれたのだろう。
彼の傍らには、刀の姿に戻った氷輪丸が無造作に投げ出されていた。
あのまま眠ってしまったから、二人のやりとりは分からないけれど。
――悪いことしちゃったな。手を伸ばし拾い上げようとしたの手は、瞬時に日番谷に遮られた。
「・・もしかして。妬いてる?」
「あたりまえだ。」
珍しく素直な反応は、まるで少年のようで。
思わず吹き出したを、その人の緑の瞳が拗ねるように睨んだ。
「俺は疚しいことはしてねえからな。」
「わたしだってしてないもん。」
見つめ合って、瞳に笑みが浮かんだのは同時。
どちらからともなく寄り添って、日番谷の腕が抱き締める。いつもより丁寧に重ねられた唇は温かかった。
帰ってくる場所は、やっぱりここがいい。
「・・・ただいま。」
企画【「冬獅郎+氷輪丸」夢計画】
深緑はあなたと同じ(2010.02.28)