「」
本当に、何となく。
以前のように呼んでみたら、相手は驚いてこっちに顔を向けてくる。
びっくりしているのが面白いくらい顔に出ていて、それに満足したのか、日番谷は笑って呼び直した。
君の声は幸せの色
「」
「…なに?」
いつもと同じ、名前で呼ばれた。
さっき名字で呼ばれた理由が分からなくてまだ瞳には不安の色が残っていたけど、今、ほっとしたのも事実で。
少しだけ力の抜けたへ、浮かべた笑みを崩さずに日番谷は口を開いた。
「もうこっちの方が慣れてんだな」
呼ばれ方。
そう言われてみて、さっきのことを思い返して、こくんと頷いた。
名字で呼ばれてたときの方が長いから不思議だけど、今はやっぱり名前の方がいいな、なんて。
「うん、そうみたい」
「最初は逃げた上に、呼ぶたびにいちいち反応してたけどな」
「………それは忘れてくれていいです」
事実なだけに反論しにくくて、拗ねたように唇を尖らせていると、目の前の相手は意地悪く笑うばかりで。
…絶対面白がられてる、それだけは自信を持って言える。
だから、は何とか他の話題を探そうとしたのだが、その前にやっぱりちょっと気になったので一つ聞いてみた。
「でも、何で?」
「たいした理由はねぇよ。何となく思い出しただけだ」
で、前みたいに呼んだらがどう反応するかと思ったから。
ただの好奇心だと言うと、「人の反応を面白がらないでください…」とむすーっと眉を寄せた。
けれど、名字呼びの理由としてはもう納得したらしく、それ以上は何も言わずに、またのんびりとお茶を飲み始める。
(あの様子じゃ特に何にも気にしてないな、アイツ)
そんなを一瞥し、書類へと視線を落とした日番谷は僅かに溜息を落とす。
確かにただ何となく思い出したからというのは本当、だが、それともうひとつ理由もあって。
呼び方の話題を出したら、が自分への呼び方を変えようとしないだろうかという淡い希望のような。
だが、そんな裏の意図など全く気付いてなさそうなを見て、これは無理そうだと早々にこの計画は諦めた。
そして、おもむろに立ち上がると、何十枚もの書類を抱え、それを今は空席の副官の机の上にドサッと置く。
「…乱菊さんは?」
「副隊長会だ。仕事があるから終わったらすぐに戻れとは言ってある」
「そ、そっか」
一応伝言はしているとは言うものの、その量には笑みを引き攣らせてしまう。
全てが今日中というわけではないだろうが、戻ってきたときの乱菊の反応を思い浮かべて、苦笑いを浮かべた。
(戻ってきたらびっくりするんだろうな…)
それだけは簡単に予想できて、はこの場にいない乱菊に心の中で応援を送っておいた。
日番谷はというと、大分片付いたと一度だけ大きく息を吐き、また自分の席へと戻り、一枚の書類を手に取って差し出してくる。
「のはこっちだ」
「あ、うん」
立ち上がって書類を受け取り、どこか訂正部分はなかったか、どきどきしながら日番谷の言葉を待つ。
数秒後、届いたのは安心できる言葉で、はほっと肩の力を抜いた。
「これはこのままでいい。もう一つの方はあと少し待ってもらえるか」
「はい、大丈夫です。気にしないでください」
急ぎの書類ではあるものの、まだそこまで急かす時間でもない。だから、そう答えた。
別に間違ったことは言っていなかったけれど、
「あ」
はあることに気付いて、眉を下げてへらりと笑った。
気付いたのは言葉遣い。今まで普通に話していたのに、仕事の話になった途端また敬語に戻ってしまったから。
そんなを見て、日番谷も最初困ったように笑っていたのだが、少し間を空けて今度は口角を上げて笑みを浮かべる。
「逆なら悪くねぇけどな」
仕事になると敬語になるのではなくて、仕事中にでも自然と敬語が抜ければいい。
さらり、とそんなことを言われ、は「え?」と首を傾けたけれど、日番谷はそれ以上はこの話はせずに、ソファを指差した。
「そこ、座ってろ」
立ちっぱなしなのを気遣ってくれたことが分かり、も笑みを零して「ありがとう」とお礼を紡いだ。
そして、ぽすんと定位置になっているソファに座り込むと、日番谷もまた書類へと視線を落とす。
も同じように返してもらった書類へと目を通そうとした、でも、考えていたことは先ほどの失敗にも似たこと。
(やっぱり仕事中は敬語が出るというか……癖なのかな)
死神になってから礼儀も叩き込まれたし、仕事中は敬語というのが染み付いてしまってるのかもしれない。
慣れたものを変えるのってなかなか難しいな、と。
そこまで考えて、ふと思った。
(だけど、日番谷くんはあのとき普通だったかも)
今日呼ばれたように、統学院のときからずっと""と呼ばれていた。
もそう呼ばれるのに慣れていたのに、初めて名字から""と名前呼びに変わったとき、普段と変わらない声音で自然に呼んでくれたのを覚えてる。
慣れない呼ばれ方に恥ずかしかったけど、嫌じゃなかったことも。
そして、浮かんだことがあった。
(…そういえば、私はずっと"日番谷くん"って呼んでる)
名前を呼んでもらったときのことを思い出して、ふと気付いたコト。
統学院からずっと自分は"日番谷くん"と呼んだままで、何も変わっていない。
そこまで考えて、思ったのは、ごく自然な結末。
名前で呼ばれたとき、嬉しかったから。
今度は自分が名前で呼んでみようか、と。
「」
「え、な、なに?」
考え込んでいたときに、突然声をかけられて、僅かに声が上擦ってしまった。
それを何とか空笑いを浮かべて誤魔化していると、先ほどと同じように書類が差し出されたので、慌てて立ち上がって近付いていく。
「ウチの隊で演習に参加する隊員が変わったから、そこだけ訂正しておいた」
「変更になったのってこの二人?」
「ああ。それ以外は問題ない。藍染に渡しておいてくれ」
「うん、分かった。ごめんね、急いで見てもらって。ありがとう」
机の上にはまだ多くの書類がある。それなのに、優先してもらったから、しっかり感謝を伝えようと笑顔で頭を下げた。
頭を上げたら日番谷も小さく笑っていてくれて、それにまた笑みを返し、後は書類を持って五番隊舎に戻るだけ。
だけど、
「あの、ありがとう……」
「?」
同じ言葉をもう一度繰り返したのは、呼んでみるなら今かもしれないと、何となく思ったせい。
後に続けて、自分が初めて呼ばれたときのように、自然に。
何回もそう言い聞かせて、やっと声になった呼び名は囁きにも似た小さなモノ。
「………冬獅郎くん」
緊張のせいか声は少しだけ震えていたけど、ふわりと浮かべた微笑みと同じくらい柔らかいモノで。
慣れた呼び方とは違うから、やはりどこか違和感はある。
けど、ちゃんと呼べたことへの達成感も一緒にあって、はほんのり赤い頬を緩ませて笑みを零した。
「………」
しかし、返される笑顔はなく。
ただ見つめられているだけで、日番谷には何の反応も見られない。
―― そう思っていた。
それが間違いだと気付くのは早かったけれど。
(…マズイ)
一拍遅れてから、名前で呼ばれたのだと頭で理解して、すぐ片肘をついて俯いた…顔を隠すために。
情けないとは思う、だが、熱いのが治まるまでは。
だけど、抵抗も虚しく、ほどなくしても居心地悪そうに顔を赤らめてしまった。
俯いているから日番谷の顔は見えていない。
でも、以前に名前を初めて呼ばれたときの気まずさと今の空気がよく似ていて。
急に気恥ずかしくなってしまったのだが、何とかこの空気をどうにかしようと、自分から頑張って口を開いてみる。
「………あ、あの」
「………何だ」
呼びかけてみれば、不器用にではあるものの、ちゃんと返事は返ってきた。
それにほっとして、日番谷のことを呼ぼうとして、…止まった。
冬獅郎くんとさっきはちゃんと呼べたのに、この空気のせいなのか、さっきよりもずっと恥ずかしさが増していて。
きゅっと死覇装の袖を握り締めたまま、何度か口を開こうとして止めてを繰り返し、やっと出たのは逃げるための声。
「え、っと、書類の承認印確認したから……そ、それじゃ、日番谷くん、あの、失礼します…っ」
頭を下げ、廊下まで出てまた頭を下げ、襖を閉めたかと思えばすぐにぱたぱたと走り去る音が聞こえてきた。
よほど恥ずかしかったのか、音が聞こえなくなるまでにそう長い時間はかからなくて、すぐに静寂が執務室を包む。
そこに落とされたのは、呆れ声。
「……戻ってんじゃねぇかよ」
呼び方を変えさせようとした、その計画は半分成功。
半分だけなのは、最後もそうだったようにたぶん次からはまた今まで通りの呼び方に戻っているだろうから。
それでも一応成功には違いない、…なのに日番谷の口から落ちるのは溜息だけ。
「格好悪ィ」
頬杖をつき、自身へ悪態をついた。
自分からけしかけたのに思った以上に心構えができていなかった情けなさに対して。
もう一度溜息を落とし、伏せ目がちだった顔を上げると、視界の中に斜め前にある空席の机が見えて、また項垂れた。
(…副隊長会が長くて助かった)
もしも今戻ってこられたら面白がられるのは必至だ。
考えただけで嫌になりそうだったので、乱菊の机から目を離し、違うコトを考えた。
冬獅郎くん、と。
少しだけ恥ずかしそうに初めて呼んでくれた声を思い出し、舌打ちをして。
呼び名を変えさせる機会だったのに惜しいことをした、と結構本気で後悔しながら天井を仰いだ。
綾瀬様より、10万HITのフリー夢を頂いてきました!
こういう恋愛ができたら、凄く幸せだろうな〜といつも思います。ピュアな二人。
私は、名前で呼ばれるのは照れないけど、相手を名前で呼ぶのは照れますね。くん、付けは尚更です。
お互い何て呼び合う?って決める、付き合い始めの頃なんかは幸せの絶頂ですよね。
綾瀬さま、いつも素敵な夢をありがとうございます!
← 閉じる