。と、名を呼ぶ声を覚えてる。
抱きとめられた感覚も、胸の鼓動の高鳴りも。
私の遠く、遠くにある。

それは、あまりにも微かな記憶。
想いが描いた夢かもしれない。

真実を知っているのは、あの人だけ。
だけど。尋ねるなんてこと、できない。
・・・できるわけない。






消えない熱






―――今日もお見えにならなかった。
茜色が広がり始めた空に、いつの間にかそんなことを思うようになっていた。


「いいお茶菓子が手に入ったの。さんも一緒にどう?」

雛森副隊長の声を待つ、私がいる。
それから、引っ張り出されるようにして五番隊の執務室に連れて行かれると、
応接用のソファに腰掛ける藍染隊長と何やら居心地が悪い様子の日番谷隊長の姿があって。

「日番谷君からの差し入れなの。」
淡い色の包みを解く、雛森副隊長の手は軽やか。

「うわ〜。游月堂の貝合わせだ。」

「お前が注文したんだろうが。」
「だって。本当に手に入るなんて・・。これ、前から食べてみたかったんだ。」

箱から取り出されたのは、真っ白な貝殻。
貝殻を併せる朱色の和紙の封を外すと、中からは葛と餡の甘い香り。

「日番谷君、明日は菱屋のわらび餅ね。」
いたずらな笑みが光る。
確か、菱屋も行列が絶えない老舗の和菓子屋。
「雛森、いい加減にしろ。」
「ふ〜ん。そういうこと、言っちゃっていいんだ?」

「・・煩え。」


それは、もう五日も前のこと。

隊長格が揃っての宴会で、酔い潰れるという大失態を演じてしまった翌日から
隊長宛ての書類と副隊長宛ての茶菓子が、十番隊の隊長自らの手で届けられるようになっていた。

お茶菓子を理由に呼び出されて。
二人の賑やかなやりとりが続いて。
それから決まって帰り際に。

「・・少しいいか?」

問い掛けの言葉のはずなのに、碧緑の瞳は伏せられたまま。私の方を見ることはなくて。
白い羽織と銀の髪が揺れると、席を立ちあがり執務室を後にする。
慌てて追いかけるその人の背は私を待っていてくれるようで優しい。
隊舎を出た所で前を行く人の歩調が緩やかになる。

程なくして、紡がれる言葉はいつも同じ。

「具合。もう平気なのか?」
「は、はい。」

ご迷惑をお掛けしたとはいえ、あれから数日は過ぎたし。
女としては、この話題はやっぱり恥ずかしい。
もう、二日酔いで苦しんだ記憶は深く深くに沈めてしまいたいところなのに。

会話の始まりは、いつも同じ。
それだけ確かめて、そして必ず。

「お前。」
「はい?」

「・・・いや。何でもねえ。」

その後は、ただ無言のまま。
その無言にも少し慣れ始めていたところだった。

それなのに。“菱屋のわらび餅”が届けられることはなく、あれからもう五日が過ぎた。
隊長職という忙しい身なのだから、これが当たり前なのだと勿論分かっている。
だけど。もしかすると、五番隊に足を運ぶあの人の目的は、書類でも、茶菓子でもなく。
まるで、私と過ごす無言の時間が目的であるような錯覚は甘酸っぱくて。
―――あまりにも甘くて。
私の心は、いつの間にかあの人の姿を待ち続けるようになっていた。







机の引き出しに忍ばせておいた、白い蛤の貝殻に手を伸ばす。
美しく磨かれた鮮やかな白は、日番谷隊長の羽織を。白銀の髪を、思い出させる。
遠くからでは白に映っていた白銀は、意外にも銀の色が濃いのだと気付いたのは最近のこと。


「それ。游月堂の貝合せじゃない?」

気を抜いていたせいで、掌の貝殻を隠すのが遅れてしまった。
振り向くと、同僚の死覇装が対象的に鮮やかな黒で目に沁みるようだった。

「・・はい。確かそういう名前でした。」
貝殻をぼんやり眺める姿は、理由ありに見えてしまっただろうか。

「もしかして。それ、日番谷隊長から?」

唐突な問いかけに言葉が詰まる。
沈黙が長引くほど、怪しまれてしまうのに。

「みんな噂してるわよ。さんと日番谷隊長が二人きりでいる姿を見かけたって
 隊士もいるし。ねえ、二人はどういう関係なの?」

ここで黙り込むわけにはいかない。
妥当な言葉を選び取っていく。

「何も・・ただ、ご迷惑をお掛けしてしまって。
 それで、気に掛けて下さったのです。」


「なんだ。じゃあ、引き抜きの話のほうが本当?」
「・・引き抜き?」

「これも噂だけど、そういう話を耳にしたって人もいるのよね。
 ねえ、どうなの?十番隊に異動するの?」

―――さあ、私は何も。



うまく遣り過ごす事ができたのだろうか。
気がついた時には、逃げるようにして部屋を飛び出していた。

「引き抜き」という言葉に納得している自分と、残念に思う自分がいる。
でも、これで全てが上手くつながった。
あの日、料亭に呼ばれたのも、そこに日番谷隊長と松本副隊長が現れたのも、十番隊への引き抜きのため。
日番谷隊長が、連日五番隊を訪れたのだって、交渉や調整のためだったのではないだろうか。
そして、帰り際に見せてくれた優しさも配慮も、直に部下となる私への隊長としての心遣い。
・・・胸が、痛い。





不意に目の前に影が差し、危ないと思った瞬間だった。
ぶつかった。・・いや、ぶつかったと同時に、抱きとめられていた。

「おい、大丈夫か?」

この声は何度も聞いた。
―――具合、もう平気なのか?
この感覚にも覚えがある。
温かで、包まれているようで嬉しかった。

「申し訳ございません。こちらの不注意です。」
「いや、構わん。」

抱きとめられた所から身体を離すと、肩に触れていた手もあっさりと放された。
日番谷隊長の手には、今まで通りの書類と茶菓子を包んだ紺色の風呂敷。
きっとその中身は雛森副隊長が心待ちにしている、“菱屋のわらび餅”。
・・・私だって。待ち続けていた光景なのに、今は瞳が翳んでしまいそうだ。


「・・お前。何かあったか?」

少し困惑した表情で。私はいつも心配されてばかりだ。
こんなに頼りないようでは、引き抜きの話さえ消えてしまうのではないだろうか。



「あの。日番谷隊長に、お願いしたい事があるのです。」

碧緑の瞳の動きで、困惑が更に深まったのが分かる。
だけど。この際、はっきりさせたほうが良いのだから。

「聞いて頂けますか?」
「ああ。まあ、言ってみろ。」

「前に。私に・・言いかけていたこと。聞かせて頂きたいのです。」

綺麗な瞳の動きが止まる。言葉も途切れる。

・・今日の無言は恐い、と思う。
時が止まったようで、踏み出し方も分からなくなって、恐いと思う。
恐いと思うぐらいに、私の想いは強くなってしまっていた。


「・・分かった。お前が聞くと言ったんだからな。苦情は却下だ。」

バサリと鈍い音がして。
それが、書類と風呂敷が地に滑り落とされた音なのだ理解したのは、随分後のことだった。

私の瞳はいつも追いかけることしかできなかった白色に覆われて、
私の背は忘れることのできなかった温もりに、強く抱きしめられていた。



「覚えてねえか?」

「・・何を、ですか?」


「次は、惚れさせてみせると言っただろ。
・・つまりだな。お前が好きだと言ったつもりだ。」








―――遠くの記憶が夢でもいい。
だけど、どうか。この瞬間だけは、夢になって消えてしまいませんように。